焼香の作法をご紹介(曹洞宗)
お盆の時期になりましたね
法事、お彼岸となかなかお寺にお参りに行けていないと焼香の仕方忘れてしまう方おられるかもしれません
また、今までお寺との付き合いをしていない方は余計に分からないものです
ですが、何かしらの縁で関わる機会が増えると思います
ですので今回は焼香の作法をご紹介いたします
地域、宗派によって多少違いはあるかと思いますが、基本は変わらないと思いますので是非参考にしてください。
続きを読む卒哭忌と目連尊者の教え 〜私の修行中の体験を通して〜
「卒哭忌(そっこくき)」とは、人の死を悼み、泣くことを卒業する日とされる仏教の法要の一つです。
一般的には、亡くなってから百日目に営まれ「百ヶ日」という名前で聞いたこともあるかと思います。
「泣き終える日」「悲しみを超えて歩み出す日」とも言える節目です。
目連尊者と卒哭忌の由来
この卒哭忌の由来の一つとして、お釈迦様とその十大弟子のお一人である目連尊者(もくれんそんじゃ)のエピソードあります。
目連尊者は神通第一と称されるほど聡明なお弟子様でした。
(神通力に関してはお盆の記事にございますので、記事の最後にリンクを貼っております)
しかし、最愛の母を亡くしたことから、深い悲しみに沈み、修行に集中できない日々が続いていたといいます。
「泣き続けることは、母を悲しませるばかりだ。母への何よりの供養は、あなたが仏道に励むことだ」
ある日、お釈迦様は目連尊者にこう語りかけました。
この言葉に心を打たれた目連尊者は、涙を拭って修行の道へと再び歩み出しました。悲しみを卒業し、新たな精進の一歩を踏み出したその日が卒哭忌の起源とされています。
私の体験談 〜修行中に祖父を亡くして〜
私もかつて、永平寺での修行中に祖父が亡くなるという出来事を経験しました。
修行に集中できず、気持ちがどこか宙に浮いたような状態になり、祖父への想いが心を締めつけていました。
永平寺の許しを得て、四十九日の法要には一度山を下り、家族とともにお参りすることができました。その後、修行に戻ったある日、「百ヶ日(卒哭忌)」についての話を伺いました。
人が亡くなれば、どんな偉大な修行者も涙に暮れる。
だけど、その悲しみを超えてまた歩み出すのが仏道の道なのだと。
その話がまさに、自分の中の転機になりました。
悲しみはあるけれど、それを力に変えて、祖父のためにも、もっと自分自身の仏道を深めようと心に決めたのです。
悲しみを卒業するということ
「卒哭忌」は、悲しみを無理に忘れたり、押し殺す日ではありません。
悲しみを受け入れた上で、それでも歩み出す決意の日。
それは亡き人を悲しませないための供養であり、自分自身が一歩前へ進むための仏の教えでもあります。
目連尊者のように、そして私自身のように――
誰しもが悲しみの中にあっても、仏道に励むことでその悲しみを昇華していける。
そんな力が、卒哭忌には込められているのではないでしょうか。

行ってきます」「ただいま」──日常に宿る祈りと感謝の言葉
「行ってきます」「ただいま」──
私たちが毎日のように口にするこの言葉。何気ないあいさつのように思えるかもしれませんが、そこには大きな意味が込められています。
◆「行ってきます」は命を預ける言葉

「行ってきます」は、もともと「行って、また帰ってきます」という意味です
つまりこの言葉には
「必ず戻ってくる」という祈りと
「戻れるかわからないけれど行ってまいります」
という覚悟が含まれているのです。
事故、災害、病気、いつ何が起こるか分からない現代において、外に出るというのは実は命がけの行為でもあります。
だからこそ、「行ってきます」は単なる出発の言葉ではなく、「生きて帰ってきます」という命を預ける言葉だといえるのです。
◆「ただいま」は生還の報告
そして「ただいま」は
外の世界から「無事に戻ってこれた」という報告と感謝の言葉です。
「いま、帰ってきました」
「この命で、またここに戻れました」
という深い意味を持っています。
だからこそ、「おかえり」という返事もまた、無事の帰還を喜ぶ愛と安堵の言葉です。
仏教では、今この瞬間の命を大切にします。
今日「行ってきます」と言えたことも
「ただいま」と帰れたことも、決して当たり前ではなく、たくさんのご縁と守りのおかげです。
家族がいること、家があること、待っていてくれる人がいること。
すべてが「ありがたい」ことなのです。
◆子どもに伝えたい言葉の力
最近では、忙しさやスマートフォンの普及、一人暮らしで、こうしたあいさつを交わす機会が減っている家庭もあるかもしれません。
でも、だからこそ大切にしたい。
「行ってきます」と「ただいま」をきちんと伝え合う家庭は、命を敬い、感謝の心を育てる場所になります。
◆日常に宿る仏の教え
仏さまの教えは、特別な場所にあるのではなく、日常の中に宿っています。
「行ってきます」「ただいま」という言葉を丁寧に交わすことが、すでに祈りであり、修行の一歩なのです。
今日もまた、心を込めて「行ってきます」「ただいま」を伝えられますように。
禅問答とは?意味がわからない「問い」に込められた深い意味
禅問答
仏教について少し調べた事がある人は聞いたことがあると思います
ただ!!!!
「禅問答って、何を言ってるのかさっぱりわからない」
そう思ったことはありませんか?
実はその「わからなさ」こそが、禅問答の本質だったりします
ちなみになんですが、、、
私も正直なところ意味がわからないことが多いです笑
🧘 禅問答とは?
禅問答とは、禅宗において師匠と弟子が交わす言葉による修行の一つです。
しかし、普通の「質問と答え」とは違います。
論理的に説明するのではなく、言葉を超えた「気づき」や「悟り」へ導くための問いが禅問答なのです。

🔍 有名な禅問答(公案)の紹介
🧩 公案①:片手の音とは?
問:「両手を打てば音がする。では、片手で打つ音とは何か?」
答:……
これは有名な公案の一つ。
普通に考えれば答えようがない問いですが、それが目的です。
論理的な答えを出そうとする心そのものを手放し、「考えを超える気づき」に至る道を示しています。
🌊 公案②:庭の槐(えんじゅ)の木じゃ
ある人が尋ねました。
「インドから禅宗を伝えにきた祖師が、西から来た目的は何か?」
答:「庭の槐の木じゃ」
脈絡のないように聞こえる答えですが、ここにも「意味を探す心」そのものを打ち砕く意図があります。
🔥 公案③:「無」の公案
ある僧が趙州に尋ねます。
問:「犬にも仏性がありますか?」
答:「無」
「“ある・ない”という考えすら手放せ」という意味が込められています。
🧠 禅問答の本当の目的
禅問答の目的は、「答え」を得ることではありません。
問いに向き合う過程で、考える自分自身を見つめ直し、執着を捨てることにあります。
🌱 日常に活きる禅の考え方
禅問答の姿勢は、日々の生活にも役立ちます。
- 答えが出ない問いにイライラしない
- 「意味」や「正解」にこだわりすぎない
- まずは感じること、黙って観察することの大切さ
🏁 まとめ
禅問答は、わざと意味がわからないように作られています。
それは、常識的な思考を超え、真理にふれるための入り口だからです。
最初は理解できなくて当然。
でも、心を静め、考えることを手放したとき、ふと「気づき」が訪れるかもしれません。
問:仏とはなんですか?
答:
自分を見つめる力──本当の強さとは何か
日々の暮らしの中で、誰かに注意されたり、指摘されたりすることがあります。
そんなとき、素直に「そうかもしれない」と受け取れる人もいれば、反発したり不満を感じたりする人もいます。
なぜ、自分の非を認めることはこんなにも難しいのでしょうか?
そして、その壁をどう乗り越えればいいのでしょう?
こうした心の問題に対して、多くの気づきを与えてくれる教えがあります。
己を知ることは智慧の第一歩
仏教では、「自分の心を見つめること(内観)」が、修行の出発点とされています。
これはただ反省するという意味ではなく
自分の考え方・感じ方・行動の根っこにある心を静かに見つめることを意味します。
たとえば、自分が何か注意されたときに「なぜ腹が立ったのか?」「なぜ受け入れたくなかったのか?」と問いかけてみる。
そこには、もしかしたら“自分は悪くない”という思い込みや、プライドがあるかもしれません。
でも、それに気づくことができたなら、それこそが「智慧」への一歩なのです。
強さとは、非を認める勇気
仏教では、自分の未熟さや過ちに気づいたときに、それを素直に認めることを「柔和忍辱(にゅうわにんにく)」という徳のひとつとして大切にしています。
これは、単に“我慢する”という意味ではなく、柔らかい心で、ありのままの自分を受け入れる力を指します。
本当の強さとは、他人に勝つことではなく、自分の心と向き合う勇気なのだと、仏教は教えてくれます。
プライドを手放すと、心が軽くなる
「自分を守りたい」「間違っていると思われたくない」という気持ちは誰にでもあります。
でも、そうしたプライドを握りしめていると、心はどんどん重たくなっていきます。
プライドを捨てるのではなく、「一歩下がって自分を見てみる」ことで、自然と心がほぐれていきます。
仏教ではこれを「観心(かんしん)」といい、自分の心を客観的に観ることで、執着や煩悩から離れていく智慧が育つと説きます。
気づける人は、変われる人
注意されたときに、反発心が生まれるのは自然なこと。
でも、その心を「なぜ?」と見つめる力を持てたとき、人は大きく成長していきます。
仏教は、誰かを裁くためではなく、自分の中にある光を見つけるための道しるべです。
あなたの中にも、すでにその光は宿っています。
まずは、一度深呼吸をして、自分の心に問いかけてみませんか?
縁を選ぶことも智慧〜人間関係の距離感
私たちは日々、さまざまな人と出会い、関わりながら生きています。
家族、友人、同僚、ご近所さん……。
縁があるからこそ支えられ、学び、喜びを感じることができる一方で、時には「この人との関係、つらいな」「どうしてわかってもらえないんだろう」と感じることもあります。
そんなとき、仏教は私たちに一つの視点を与えてくれます。
縁とは「偶然」ではなく「必然」
仏教では、すべての出会いや出来事は「縁」によって成り立っていると考えられています。
縁とは、原因と条件が重なり合って起こる現象のつながりのこと。
つまり、今目の前にいる人との関係も、何かしらの理由があって生まれた「結果」なのです。
しかし、「すべての縁が永遠に続くわけではない」というのもまた仏教の視点です。
「縁を大切にする」と「縁にしがみつく」は違う
よく「ご縁を大切に」と言います。
これはとても素晴らしいことですが、「どんな縁も手放してはいけない」と思い込んでしまうと、自分を苦しめることになります。
たとえば、自分を否定し続ける人、他人の話を一切聞かない人、自分勝手な振る舞いで周囲を振り回す人…。
そうした人との縁を「我慢してでも保たねば」と思ってしまうと、心がすり減ってしまいます。
振り回されず、冷静に物事を見る力のことを「智慧(ちえ)」と説いています。
縁を選ぶのは、冷たさではなく智慧
ときには、関係を続けることよりも、離れること、距離を取ることのほうが慈しみにかなうという場面もあります。
それは相手を裁くためではなく、お互いの心が乱れないようにするための選択です。
仏教の「中道(ちゅうどう)」という考え方は、極端に執着することも、突き放すこともせず、バランスの取れた道を歩むことの大切さを教えています。
だからこそ、縁を選ぶことは逃げでも、冷淡でもありません。
今の自分にとって、そして相手にとっても、その距離が最も穏やかであると見極める、それこそが「智慧」の働きなのです。
自分を責めないこと
縁を手放したり、距離を置いたりすると、どこかで「自分が悪いのでは」と思ってしまうこともあるかもしれません。
でも、心を守ることは決してわがままではありません。
むしろ、自分の心を整えていくことが、他者への思いやりにもつながっていきます。
すべての縁に感謝しつつ、今必要な縁を選ぶ。
それは、仏教が教える智慧のかたちのひとつなのです。