"まだ"なんちゃって坊主

まったりと仏教に関すること、また体験談などを書いていこうかなって思って始めたやつです ※僧侶のイメージ崩壊するかもしれません!もっと親しんでもらいたい!『僧侶=近寄りづらい』をなくしたいと思ってます

【挨拶】日本人の心の深さを示す礼儀

挨拶

おはよう

こんにちは

こんばんは

よろしくお願いします

行ってきます

いってらっしゃい

ただいま

おかえりなさい

いただきます

ごちそうさまでした

などなど挨拶の種類はたくさんございます。

挨拶というのは日本人にとってとても大事な礼儀の1つですね

 

さて、挨拶というのは私も最近知りましたが元は仏教の言葉から来ているものらしいです。

 

一挨一拶(いちあいいっさつ)

挨(あ) と 拶(さつ) はどちらも「押す」「迫る」という意味があり、お互いの心を深く探り合うことを意味します。

 

禅問答にて師匠が弟子に問いかけ、その答えを通して相手の修行の深さを試す問答を交わすことを言いました。

師匠との問答は心を開いた状態で行われます。

現代では挨拶は単なる礼儀的な行為ではなく、人と人が心を通わせるための第一歩であることを示しております。

 

何よりもまずは挨拶!

以前に人間関係の話をいくつかしてきました

 

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が!!!

 

何よりもまずは挨拶をしなくては何も始まりません!!!

武道の言葉に

「礼で始まり礼で終わる」

とあるくらいまずは挨拶です。

 

私も学生の頃テニスをしており、その際コートに入る前には

「よろしくお願いします」

練習が終わったあとには

「ありがとうございました」

と挨拶していたのを思い出します。

 

人間関係でも同じです

人と付き合っていくうえに大事なことは挨拶!

 

怨憎会苦(おんぞうえく)

仏教で説かれる八苦の一つで、嫌いな人や憎む人に会わなければならない苦しみを指します。

中には「この人と関わりたくないなぁ」と思う方もいらっしゃると思います

そういう方はまずその人に挨拶しないと思いますが、同じ職場、学校、生活にいる以上いつかは必ずその人と接しなくてはいけません。

それがもし上司なら尚更です。

「この上司嫌いなんだよなぁ」と思っていても挨拶はしなくてはいけません

同じ仕事をしている以上挨拶がなければその後のコミュニケーションが円滑に進まず、まともに仕事をこなせないかもしれません。

怨憎会苦は、決してあなただけの悩みではありません。

多くの人が抱える当たり前な感情です。

この苦しみと向き合い、乗り越えるための第一歩は、自分自身を深く理解し、心の状態に目を向けることです。

そして挨拶!!です

挨拶は先にもいいましたが心を開いて相手と心を交わす行為です。

このあとの関係を築いていく上にとても大切な行為です。

挨拶をされて嫌だなぁと思う人はそうそうないと思います。

 

これはいい意味として捉えていただきたいですが

まぁあとは媚びを売るみたいなところもあるかもしれませんね

食事の際「美味しかったです!!ごちそうさまでした!!」とお世辞で言われていてもそれに対して不満に感じる人もいないと思います、なんならご馳走してよかったと思う方が大半です!

それから良い関係を築いていくのも良いかもしれません。

 

これは内緒の話ですが(⁠ ⁠´⁠◡⁠‿⁠ゝ⁠◡⁠`⁠)

上司があまり好きではないなら、食事に集中しましょう笑

ご飯に誘われたら、「嫌だなぁ」ではなく

「何食べさせてもらえるかな??」「美味しい料理だったらなぁ」と考えを変えてみるのです。

そして食事をしながらある程度上司の必要な話だけを抜き取り

最後に「ごちそうさまでした!!」と一言!

これなら料理も美味しく食べれますし、上司の話もある程度ですみます

上司は上司で美味しく食べてくれて嬉しい気持ちにもなります!

最後にごちそうさまでした!と挨拶をすることでこの部下に大きな案件を任せてみようかなぁ

など繋がる かも!しれません

 

挨拶はとても大事な行為です

どんなに親しい仲であっても挨拶は欠かさず行っていただきたいですね!

 

 

 

坐禅ってすげー!!:坐禅から見えた心の弱さ

今のこの想いを忘れないうちに書き残したいと思って緊急でブログ記事書いてます!(なんやねん緊急って笑

 

先に結論から言いますと

坐禅ってすげー!!!

なんですね!

 

いやぁ私も曹洞宗の僧侶としてなんども坐禅をしてきましたが、今日のような気づきっていうのは初めてかもしれません!

 

さて、事の発端ですが

LINEで意見の食い違いがございまして軽い喧嘩になったわけです

どっちが善い悪いの話は抜きにします。

互いの意見が合わず話がぐちゃぐちゃになったとき

そしてつい強い当たり口調で言ってしまいました

 

その日はたまたま坐禅をする機会がありましたので途中で坐禅をすることにしました。

 

坐禅

「あの話は、、、」

「明らかに相手が、、、」

「ここ言い過ぎたなぁ、、」

と最初の数分は色々と考えておりましたが

ある時を境に

そんな考えがふと消えたわけです。

 

そんな中また別の考えが浮かんだわけです

 

「これが何も考えないってことか?

不安、怒り、人生、、、、

ただひたすら座る

いままでは何も考えず無になるのが坐禅だと思っていたが

 

自分を見つめ直すため、湧き上がっか感情を抑えるために考えが浮かんできてもこれはいいものなのではないか?

 

外界のことは考えずにただただ座る

これが只管打坐なのかなと、、」

 

老師の言葉

そしてさらに修行中の老師の言葉で

「作務も坐禅、食事も坐禅、生活すべてが坐禅なのだ」

という言葉を思い出し

この気持ちを常に持っことができれば

不安、怒りなどは全く湧いてこないように人生を歩めるのではないかと

もし湧いてきてもすぐに消化できるのではないかと

それができないから坐禅をひたすらやるのか

これが只管打坐なのかなと

 

坐禅

坐禅が終わったあと

またLINEを見たら

やはり強い言葉にたいして心が折れたとのこで

その件に関しては謝り

自分の心の弱さを実感させられました。

 

坐禅ってすげー!!!

坐禅中は何も生まないし何も解決しないが

自分を見つめ直すよい修行なのだと思う1日でした。

皆様も1日の最後に坐禅を5分だけでもしてみてはいかがでしょうか?

 

この考えが正解なのかはわからないですし、そんなの坐禅ではないという方もいるかもしれませんが、これが初めて自分なりに坐禅というものに向き合った第一歩だと思いこれからも日々精進してまいります!!

 

ちなみに今日(12/9)は断臂摂心といい、本山では19時頃から深夜にかけて坐禅三昧です!!

 

 

 

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子供が知っているようなことでも老人が実践するのは難しい!?仏様の教えとは??

三歳孩児雖道得 八十老翁行不得

三歳の子供でも、何が善いことか、何をしたらいけないかぐらい、よく知っている。

にもかかわらず、八十歳にもなったという老人でもそれを実践できない

という意味になります。

 

詩人と和尚の問答

唐の白楽天(詩人)が鳥窠道林という禅僧に、「仏教とはどのような教えですか」と尋ねると、鳥窠和尚が、「どんなことであれ悪いことはしてはならない。できる限り善いことをしなければいけない。そうすればおのずから心は浄くなる。これが仏たちの教えだ」と答えられた。

楽天は「そんなことだったら、小さな子供でも知っていることでしょう」となじると、「三歳の子供でも知っていることを、八十の老人でさえ行なうことが難しいのだ」と言われた。

 

善と悪

小さい子供でも、何か悪いことをしたときに叱られる経験から、何が善くて何が悪いのかを理解し始めます。

しかし、長年生きてきた経験豊富な大人でさえ自分が知っている正しいことを常に実践できるとは限りません

 

仏教とはそういう人たちにあるものです

お教本に書かれてる仏様の教えは何も難しい事は書いてありません、聞いたとない、言ったことないことでもありません。

 

できるできないは人それぞれですが、仏様の教え、善い事と悪い事を知っているというのがとても大事であり、強みなのであります。

 

なぜか日本人は善い事をしようとすると周りから変な目で見られることが多々あります、、、、

また、どうせ他の人がやってくれるだろうと他人任せにしてしまうこともあります。

 

当たり前の事を当たり前に行う

赤信号は止まれ!!

ゴミはゴミ箱へ

トイレを汚したらキレイにする

 

なにか行動しようと最初にふと思い浮かんだ善い気持ちを実践すればいいだけのことなんだが、どこか気恥ずかしいところもあるかもしれない、偽善者とも思われるかもしれない、でもその行動は何も間違ってはいません!!

逆にそう思ってしまう人がいるということはまだまだ菩提心が足りていないということになります。

 

ちょっとずつ心を育てていきましょう!

仏教徒として善いことを実践しつづけ、皆さんも精進してください

 

修行中の体験記:鼻歌禁止!お風呂はお静かに…

浴司

浴司とはお風呂です。

浴司の仏様は跋陀婆羅菩薩(ばったばらぼさつ)

 

1.入室の際に「失礼します」と一言

入室すると跋陀婆羅菩薩様が祀られております。

2.五体投地をして3度の礼拝をします。

(五体すなわち両手・両膝・額を地面に投げ伏して礼拝することである。

仏教において最も丁寧な礼拝方法の一つとされます。)

※三黙道場の1つとなりますので心の中で唱えます

沐浴身体 当願衆生 身心無垢 内外清潔

(もくよくしんたい、とうがんしゅじょう、しんじんむく、ないげこうけつ)

3.その後衣を脱いで、入浴

(鼻歌でも歌ったもんでしたらもう怒られますね笑)

4.入浴後、衣を着た後

5.また五体投地にて3度の礼拝 

6.退出にて「失礼しました」と一言

 

修行中の話

これは、、言ってもいいことなのか、、、

旦過寮と呼ばれる、入山すると大きな部屋に隔離され、永平寺の基本作法を約一週間程学ぶ寮舎へ詰められます。

そこでは、常に坐禅、私語は一切禁止、トイレも自由に行けず

お風呂なんて入れない、着替えもできない場所でした。

(歯は磨いたかな??忘れました)

このお話はまた今度!

苦痛の一週間が終わり、7日ぶりのお風呂!!!

ほんと最高でしたね!!

身体の汚れ、臭いが浄化されていく感じがして、お風呂って偉大だなって深々と感謝した記憶があります!!

 

【開浴と淋汗】

お風呂に入れるのは規則によると4と9のつく日だけどなっており「開浴」といいます。

ですが汗などを流すために、「淋汗」といいお風呂に入ることを許されます。

 

いかがでしたでしょうか?

最近では風呂キャンセル界隈というのが話題になっていますが

臭いですよ!笑

お風呂に入るのがめんどくさい、また明日でいいやという気持ちが一度でも出てしまうと、その積み重ねでお風呂にも入らなくなり、身体の汚れや病気になるリスクも増えると思います。

また、道行く人々に異臭を放ちかねません。

自分は気にならないからいいや、ではなく周りの人たちへ迷惑にもなってることに気づいてください。

 

修行中の体験記:永平寺のトイレ事情

今回は永平寺での修行中の話をしようと思います。

東司

東司とはトイレです

東司の仏様は鳥枢沙摩明王 (うすさまみょうおう)

お寺の東司には必ずと言っていいほど、烏枢沙摩明王様が祀られております。

1.まずはその仏様に対して合掌一礼し偈文を唱えます

左右便利 当願衆生 けん除穢汚 無淫怒癡

(さゆうべんり、とうがんしゅうじょう、けんじょえお、むいんぬち)

※「けん」の字が出てきませんでした。もうしわけありません。

 

唱えると言いましたが、三黙道場といって声を出してはいけない道場の1つのため、偈文は心の中で唱えます。

2.その後、衣を脱ぎ用を足しに行きます。

3.扉の前で弾指をし清めてから入ります。

4.用を足したら手を洗います。

(必要な分だけ水は使い、洗面台に残った水は手を使って排水口に綺麗に流す)

5.その後衣を着てから

6.また仏様に対して合掌一礼(偈文は唱えない)

 

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問)トイレは汚いところですか??

 

答)いいえ

皆様が汚くしている場所です。

 

トイレはなくてはならい場所であり、元々は綺麗な場所でした、ですがトイレは汚いところという先入観と皆さんの使い方が悪くなるからこそ汚くなっていくわけです。

寺の修行ではトイレは汚ないから掃除してキレイにするのではありません。

元々は綺麗なものだから掃除するのです。

元々が汚いものはいくら掃除してもキレイにはなりません。

 

修行中の話

鐘洒といわれる全山の時間を知らせる鐘の番をする寮舎にいた時です。

毎晩、東司清掃をするのですが、、、、

七堂伽藍と言われる7つの伽藍のうちの1つ

七間東司の清掃を任せられます。

初めての東司清掃

手に持っているのは壁用のタオル、下拭き用のタオル、残り僅かなトイレットペーパー、、、

七間東司は真ん中に細い廊下があり、両脇に7つ個室トイレが設置されています。

(和式トイレなんですよね〜、、、洋式に慣れてると大変ですよ笑)

1人1部屋担当するのですが、まずは壁から拭いていきます

扉拭いて、壁拭いて、、上から下までと

その後に下拭き用で床を拭き、便器を拭いていきます。

素手なんですよ!!!手袋もつけないです!!

ま、まぁ元々は綺麗なものですからね!!

洗剤も使わないです!

そして最後にトイレットペーパーで水滴を拭いていきます。

部屋が終わると廊下、洗面台、烏枢沙摩明王様と掃除をしていき

最後に点検があります。

待っている間は面壁と言って、壁に使って立ち続けます。

講送寮(または時期によっては首座)が確認していき、水滴1つでも付いていようものならやり直しです

洗面台の蛇口のところを「トントン」水がボタボタボタボタ、、、

やり直しです、、、

確認が終わったら向きを確認していただいた古参和尚に向き直し挨拶をしておしまいです。

これが毎日行われます。

でも素手でやってはいますが、やはり皆きれいに使っているので便器はそこまで汚れていないんですよね

だから特に抵抗もなく掃除ができちゃいます!

でもトイレって汚いってイメージ強いですよね〜

不思議ですね〜

 

不思議と言ったら、永平寺にも七不思議かありまして、、、

七不思議

東司に入る際は必ず、黒衣を脱がなくてはいけません(必ず着物の状態に裸足)

ある日、1年目の修行僧が急いでいたのか、襪子(べっす)という靴下みたいなものを履いたまま東司に入っていたところを古参和尚さんに見つかってしまい、ひどく怒られた事がありました。

その事がきっかけで七間東司で自殺をしてしまったとかなんとか、、、

その事があってから七間東司では幽霊が出るという噂が流れ始めたわけです。

今では建て替えられてはおりますが、そんな過去があったのだと修行僧の中では今でも語り継がれております。

 

皆の心に烏枢沙摩明王

掃除というのは自分の心を清めるための修行でもあると思います。

自分が不浄であれば、周りも不浄になる

自分が清浄ならば、周りも清浄にすることができます。

悲しい話もありましたが、皆様のご自宅にも烏枢沙摩明王様がお祀りしてあると心で思い掃除させていただきましょう。

 

おしっこはみだしちゃった!

烏枢沙摩明王様が見てますからね◉⁠‿⁠◉

 

 

【三時業】因果応報!!未来の自分は幸せですか?

皆様いきなりですけど、人間関係、仕事上手くいっておりますでしょうか??

「仕事をサボりやがって!!」

「私はこんなにも人のために尽くしてるのに!!」

「なんであの人は悪い子としているのに!」

などなど、人によっていろいろな悩み、怒り等湧いてくる瞬間はたくさんあるかと思います

ただ、そこでイライラしてしまうとなるとまだまだ仏道修行が足りていないということになります、

仏教の三毒

貪瞋癡の怒りと無知による愚かさですね

さて勉強してまいりましょう!!

曹洞宗で読まれる【修証義】というお教本の中に「三時の業」について説かれております。

三時の業

善悪の報に三時あり、一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受、これを三時という、仏祖の道を修習するには、其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり、爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。

修証義 第一章 総序(第5節)

善悪の報いとは、良い行いをした人には良い結果が、悪い行いをした人には悪い結果が、必ず何らかの形で返ってくるという考え方です。

 

三時の報いとは、この善悪の報いが、3つの時期に現れるという意味になります。

  順現報受: この生において、すぐに報いが現れること。

  順次生受: 次の生において、報いが現れること。

  順後次受: より後の生において、報いが現れること。

 

私たちが現在抱えている悩みや苦しみは、過去の行いの結果である可能性があります。

仏教の修行は、この三時の業報の理を深く理解し、過去の悪業を清め、善い行いを積み重ねることで、より良い未来を築くことを目指します。

三時の業報の理を理解しないと、誤った見解(邪見)に陥り、悪道に堕ちてしまう可能性があります。

しかもただ悪道に落ちるだけではなく、長い間苦しみを受けることになってしまう。

 

さて、善い行い、悪い行いというのはいつか必ず返ってくるものです。

それは「今すぐに返ってくる場合」「明日、1年後、数年後の場合」「自分が亡くなって、子供の世代のとき」

いつその報いが返ってくるかはわからないが、必ず返ってきます。

 

仕事でサボっている人、人に迷惑をかけるような人、自分勝手な人、今は意気揚々としているかもしれないが、必ず誰かがその悪事を観ています。

もし、そのことで悩んでいたら、仕事にも集中できないですし、自分は一生懸命に取り組んでいるのにその事が気になってイライラやストレスが溜まっていってしまいます。

考えるだけ損ですので放っておくのも1つの手ですね!

 

もし、自分と直接関わりを持たなくてはいけないような関係ないの場合は

以前にも書きました「忍辱」の修行を実践してみるのも良いかと思います。

仏道修行を日々心がけていれば、いつかは良い報いとして返ってきます。

どうせいつか報いが返ってくるのなら良い報いが返ってくるほうがいいのではないでしょうか?

 

世の中がより良くなることを願っております。

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【忍辱】我慢するのではない!!ストレスを和らげる修行法

お釈迦様が弟子たちに説かれた修行の1つに「六波羅蜜」があります



六波羅蜜(ろくはらみつ)

六波羅蜜とは6つの波羅蜜という意味です。

波羅蜜とはサンスクリット語のパーラミターの音写語です。

適切な訳語がないのでそのまま音写されたのですが、あえて意訳すれば

「悟りの岸にいたる道」と訳せます。

「仏の悟りの世界に入るために必要な、大切な6つの修行法ということです。」

その6つとは

「布施」「持戒」「忍辱」「禅定」「精進」「智慧

 

そのうちの「忍辱」についてお話したいと思います。

 

【忍辱】(にんにく)

「忍辱」とは忍耐とも言えるのですが

いろいろなことに耐え忍んでいくという意味です。

 

修行中での出来事

これは私が修行僧のときのお話です。

永平寺での修行が2年目になった頃、新しく上山してきた方を指導してるときでした

その人は怠け癖があり、その上ミスも多く、あまり反省もしないような人がいました。

学生気分が抜けていないと感じており、「いつまでも学生気分でいるなよ!」「いい加減大人になりなさい!」「これから社会人となる時にそれでは恥ずかしい」「周りの人に迷惑をかけるつもりか?」など何かあるたびにその人へ注意をしておりました。

しかし、その人は全くと言っていいほど改心せず、私はイライラが募る一方です。

その時に、それを相談したところ「これも修行の1つだと思って忍耐強く我慢しなさい」と言われ、私はただひたすら我慢していました。

その時に、「忍辱」という言葉を知り、我慢するのも忍辱という修行か!と思い、ただひたすら、イライラを心に抱えながら指導し、我慢をしておりました。

そんなある日、また同じ人がサボってミスをした時に私のイライラが爆発し手を出してしまったことがあります。

その件に関しては大事にはならず、その場で収集つきましたが、相手がどんなに悪くても手を出した私が悪くなるのは明白です。

我慢したところで心が落ち着くわけがない、イライラは残る

「これが修行??」「相手が悪いのになんでだよ!!」「クソが!!」

「親から甘やかされすぎなんだよ!!!」「どうせ大きい寺だから何も苦労せずに生きてきたんだろうな!!」

心の中で色んな想いが湧き出てきました。

結局これ以上大事にならないようにと、修行中はただひたすら我慢の繰り返しで指導していたなと思い返します。

 

【忍辱】と【我慢】

数年と月日が経ったある日、YouTubeにてある動画を見つけました。

「忍辱」と「我慢」の違いについてのお話です。


www.youtube.com

この動画を見てから「忍辱」と「我慢」違うことなんだと気付かされました。

今まで私が修行中にしていたのは「忍辱」でもなんでもなくただの「我慢」だったのだと、じゃあ私が今までやっていたのは相手のためにも、自分のためにも修行にならないことをしていたんだなと数年越しに気付かされたわけです。

 

この動画では

仏教において忍辱というのは様々なことに耐え忍び、辛くても我慢するという意味ではありません。

どうせやらなければいけないことなんだから、嫌嫌でもやるか〜、、でもありません。

辛いことを我慢しながら嫌々やるのではなく、やるべきことをやり遂げるために、大変でもチャレンジしてみようという態度で物事に取り組むことを忍辱といいます。

似た言葉で「我慢」がありますが、こちらは堪え忍んではいるが、心の奥底では不満や怒りを抱えたり、自分の気持ちを抑えこみ心にストレスが溜まっていきます。

仏教では心を清らかに保つことを大切にします。

世の中のあらゆる作業や日常生活の中で、物事に取り組むときに、私たちの心次第で、そのことが嫌々ストレスまみれになったり、大したことないと感じられたりします。

とおっしゃっています。

 

たしかになと!!

私は我慢することで一時的に苦しみから逃れてはいたが、心の中に余計なストレスを常に抱えていたんだなと、だから爆発してしまったんだ 

もし、あの時に忍辱の本来の意味を知っていたら、もう少し相手の状況や相手にどのように伝えればいいのか?を模索しながら今後似たような人が来たときの為に活かせるよう良い経験が積めれたな!と思いながら修行ができたのではないかなと思います。

 

実践してみよう

もし、相手のミスでイライラした時、まず大切なのはその感情に振り回されないことです。

深呼吸をして、冷静になりましょう。そして、なぜ相手がミスをしたのか、その背景にある状況や理由を客観的に見てみましょう。

もしかしたら、相手もあなたと同じように、プレッシャーを感じていたり、体調が悪かったりしたのかもしれません。

相手を責めるのではなく、まずはその状況を理解しようとする心が大切です。

「他人の過ちを責める前に、自分の心を反省してみなさい。」

私たちは完璧な人間ではありません。誰しもがミスを犯すものです。

相手のミスを責める前に、まずは自分の心に目を向けてみましょう。

皆さんは今どんな悩みがありますか?

もしかしたら、仕事、人間関係、健康など、様々な悩みがあるかもしれません。

しかし、決して諦めないでください。

忍辱の心を持ち一歩ずつ前に進んでいきましょう。

そして、いつか必ずその苦しみを超えて心の光を灯すことができる日が来るはずです。

おまけ

そういえば!

私にとって我慢から忍辱へと変わっていたんだなと思う修行生活がありました!

それは朝のお粥と作務です。

 

永平寺の朝の食事は「お粥・ごま塩・たくあん・梅干し」と毎日同じ質素な食事です。

毎日毎日飽きてしまう、、嫌だなぁ、、またおかゆか、、と思っていた時もありました、ただいつの日にかお粥に使っている米が玄米だったり、白米だったり

また、つくり手によって水分量が違っていたり、ある時にはお供えしたお餅が入っていたりと!

毎日のおかゆに違いがあったことに気づいて「こんなことにも気付けないほど食事に無沈着で文句ばっかり垂れていたのか、、」と恥じた経験があります。

それ以降、朝のおかゆを食べる際一口一噛みと米の美味しさ甘みに感謝して、知らず知らずに楽しみになっていたなと思います。

 

もう一つが作務です。

これは朝の掃除ですね、長い階段、長い廊下と毎日毎日暑い日寒い日掃除します。

「辛い、、寒い、、足が痛い、、、」最初の頃はそう感じながら嫌嫌やっていました。

これもある時を境に自分に体力がついて、朝の作務が昔と比べると楽になったなと思い始めます。ただだからといってサボるわけにはいきません、そこで行ったのがどれだけ細かいところまで掃除できるかを一人勝手に楽しみながらやっていました笑

心と体力に余裕ができたこそ新たな発見や楽しみが生まれてくるのだなと!

(これは忍辱なのかな???)

修行生活とは知らず知らずにそれが実践できていたのだと今になって思います。

 

おまけ2

料理などで使う「ニンニク」は仏教の忍辱からきてるという説があります。

忍辱修行の際に修行僧がスタミナをつけるために食べていたとかなんとか、、、