"まだ"なんちゃって坊主

まったりと仏教に関すること、また体験談などを書いていこうかなって思って始めたやつです ※僧侶のイメージ崩壊するかもしれません!もっと親しんでもらいたい!『僧侶=近寄りづらい』をなくしたいと思ってます

修行中の初体験、、、、、法話だからね!

 

101回目の記事は私の初めての法話を書き記したいと思います。

 

永平寺では2月ごろに「法話発表会」がございます。

各寮舎で一人づつ選出され、役僚(指導者)、修行僧の前で10分間法話をします。

 

この話があったとき「これはやるしかない!!」と率先して立候補をしま、、、

してないです

 

じゃんけんで負けて法話をすることになりました笑

今思えば、結果としてよい経験ができたなと思います。

 

といことで法話をつくるわけですが、今まで作ったこともないし、学生の頃の作文や読書感想文も苦手だったので法話となったらもう何から始めればいいのかさっぱり

 

ということで法話に関する本を購入し真似すればいいかなと思ったのですが、全く覚えれないんですよね

やはり自分の体験談などが法話の中に入っていないと話せれないんだなと気づかされました。

 

ということで次に行ったのは役僚さん(指導者)に聞きに行きました

やはりプロでしたね!

そのころ私は庫院とよばれる料理を作る寮舎におりましたので、「典座教訓を参考にするといいよ」と一言

 

※『典座教訓』といわれる道元禅師が著した書物の一つで、食事を作る役職である「典座」の心得について説いたもので、食事を作る際の心構えや調理法などが記されています。

 

正直なところ修行中は、はずかしながら全く仏教に関して知らなかったのでこの一言はとてもありがたかったです。

とりあえずそのあとは『典座教訓』から抜粋してなんとか10分程度の法話を完成することができました。

 

法話当日

心臓バクバクでしたね笑

当日まで何度も何度も読み慣らしはしましたが、いざ人前で話すとなるとこんなにも緊張するのだなと思いましたね

 

なんとか、、なんとか法話を終えたあとは胸が苦しくて苦しくてつらかった記憶があります、、、

緊張と緩和が急すぎたせいですね

 

何はともあれ無事終えれて、法話を作れて、人前で話せたこの経験は今も活きているなと実感できます

 

さて最後に当時の文を書き記します

物の大切さ

皆様こんにちはえきょーと申します。よろしくお願いいたします。

私が修行させていただいております、永平寺を開かれました道元禅師様は『典座教訓』という食の大切さを記した書物の中に

「眼睛なる常住物を護惜せよ」という言葉がございます。

眼晴:目の玉

常住物:変化なく常に存在するもの

 

「お寺常備品は人の目玉と同じくらい特別大切にしなさい」という意味でございます。お米や野菜などをこの上なく高貴なお方に差し上げるお食事のように丁寧に扱わなければなりません。生のままでも煮炊きしたものでも、同じ心がけで臨むことということです。

ほかにも「一茎菜を拈じて丈六身となし、丈六身を請して一茎菜となす」

こちらは「一本の野菜でも仏様の身体として大切に扱う」という意味です。

 

ここで私の昔話をいたします。

これは私が大本山永平寺の「小庫院」という食事を作る場所で修行させていただいてる時でした。

庫院にはいってからの数日間は夏の暑い中、一日中ブラシで床を磨いたり他の方が料理を作った際にできた鍋や皿の洗物をしている毎日でした。

ある日、私に包丁を持たせていただく権利を先輩和尚さんが与えてくれました。その時の「やっと料理をすることができるんだ」という幸せは今でも覚えております。

もともと永平寺で修行する前はこれといって料理をあまりしていなかったので包丁を握っているときは「手を切ったりしないかな、上手に扱えるかな」など不安な気持ちがありましたが、いざ食材を切っていくと不安の中に「大きな一歩を踏み出した」という楽しみの心が芽生えてきました。

ある日、その日の献立にあった大根ステーキを作っているときです。冷蔵庫から大根を取り出し、ステーキということもあり厚めの輪切りで調理をしようとしているときでした。うしろから先輩和尚さんに声をかけられました。

 

先輩「えきょーさんその部分はどうするのですか」

えきょ「必要ないと思ったので捨てようとおもっておりました」

 

その時私が持っていたものは大根の葉っぱの部分でした。先ほどおっしゃったように私は料理をあまりしてこなかったので必要ないものは捨てるものだと思っていましたが先輩和尚さんは次にこういいました。

「菜っ葉はみじん切りにして、お味噌汁の青味として使える、ほかにも醤油・砂糖などで炒めれば高菜だってできる」と私にほかの使い道を教えてくれました。

 

またある日今度はナスを切っていた時のことです。以前の私ならナスのヘタは使わないと思って捨てていましたが、前回の菜っ葉のこともあったので残していたらまた先輩和尚さんからアドバイスをいただきました。

「ナスのヘタはごま油で焼き、ナスの水分が出たら酒を浸る以上に入れ、しょうゆを少し入れ煮込みます。途中しょうがの千切りも入れ煮込む、汁気がなくなったらナスのヘタ煮の完成だ」と教えていただきました。

食べてみても味はおいしく、それがナスのヘタであってもうまみが出ておりました。

やはり無駄なものはなく全て活かせるのだなとおもいました。

 

ここでもう一度話の最初のほうに言いました言葉を振り返ってみましょう。

「寺の常備品は人の目玉と同じくらい特別に大切にしなさい」

「一本の野菜であっても仏様の身体として大切に扱いなさい」

たとえ大根の葉っぱだろうが、はたまた今皆様が使っている鉛筆やボールペンであったり着ている服であっても人の目玉、仏様と同じように扱ってみてはどうですか?そしたら今以上に大切に扱うのではないのでしょうか

私は永平寺にて修行をさせていただくにつれて多くのことを学ばされました。今思うと昔の私の行動はなかなか考えられないことが多かったです。もちろん今でも失礼なことをしていると思いますけどね

 

今日はここにお集まりの皆様にもそれぞれ何かしらの過去をおもちでしょう。

そこで私から皆様に一つ簡単な作法をお伝えします。

①右手と左手を出してください。

②手をひらき指と指の間はとじます。

③そしたらそのまま手のひらを合わしてください。

皆様これが合掌です。 

合掌には「自分と仏が一つになる」という意味があります。その他にも「自分と向き合うものが一つになる」という意味もございます。

例えば、皆様がいただく食事であったり、接する人、扱うものであったりと自分とほかの者の命が一つになるということです。

相手や向き合うものへの姿が自己への向き合い方ということです。

これから皆様が食事を頂く前であったり本を読む前に合掌をしてみてはいかがでしょうか

「人の目・仏のように大切に扱わなければならない」ということを思い出し物事の捉え方扱い方が変わるかもしれません。

 

これにて私の法話を終了させていただきます。

ご清聴ありがとうございました。