唐代の禅僧、徳山宣鑑(とくざんせんがん)(780-865)と金剛経に関する有名な逸話があります。
徳山は金剛経の研究で知られており、その奥深い教えを多くの人に説いていました。
あるとき、徳山は南方へ向かう旅の途中、老婆が営む茶屋に立ち寄りました。
そこで腹ごしらえをしようとすると、老婆がこんな質問を投げかけます。
「背中の荷物は何ですか?」
「『金剛経』というお経本だよ」
「『金剛経』を読んでわからないことがあるのですが。質問に答えられたら、餅をタダであげましょう。でも、答えられなかったら売りませんよ。」
徳山は金剛経を熟知しているので自身満々に質問を受けたのである。
『金剛経』に云く、『過去心も得べからず、現在心も得べからず、未来心も得べからず』
『碧巌録(上)』入矢義高他訳 岩波文庫
『金剛経』の中に、「過去の心は得ることができない。現在の心も、未来の心も得ることができない」という有名な言葉があります。
では、あなたはこの餅を過去、現在、未来、和尚さんはどの心で食べるのですか?
老婆の質問に対して
金剛経を熟知していたはずの徳山は何も答えることができずに言葉に詰まってしまいました。
老婆にはそんなやつには売れない!!と追い出されてしまいました。
追い出された後に↓の話もあるそうです
学僧として有名なわしが、茶屋のおばあさんにやり込められるなんて………。わしは今まで何をやってきたんだ!」 徳山は持ってきた書物をすべて焼き払ってしまいました。それから虚心坦懐に禅を学び、歴史に名を残す禅僧になったそうです。
『ブッタが教える愉快な生き方』藤田一照 NHK出版
三世心不可得(さんぜしんふかとく)
この話から2通りの解説ができます。
心そのものは捉えられない
「三世心不可得」とは、過去・現在・未来のいずれの心も捉えることはできないという意味です。
般若心経の「色即是空、空即是色」という言葉で知られるように、すべてのものは固定的な実体を持たず、常に変化し続けています。
私たちの心も例外ではなく、過去にとらわれず、未来への不安を抱えることなく、今この瞬間に集中することが大切です。
現代社会では、過去の後悔や未来への不安に囚われ、心落ち着かない日々を送っている人が少なくありません。
過去は変えることはできませんし、未来は不確定です。
大切なのは、今この瞬間に集中し、目の前のことに全力を注ぐことです。
心は常に変化しており、固定的な実体はないものの、確かに存在しています。
その捉えどころのない心を追い求めるのではなく、今この瞬間に集中することなのです。
そうすることで、心は自然と安らぎ、真の幸福へと繋 がっていくのです。
藤田一照老師の本
徳山のように、仏教についての知識を書物などから学ぶことを「学得」と言います。彼に限らず、のちに歴史に名を残す禅僧の多くは、 仏教について学得でわかったつもりになっていました。しかし、禅問答でコテンパンに打ち負かされ、それまで積みあげてきた学得という財産を一度完全に否定された末に、学得を手放して(徳山が仏教書を焼いたように)禅の世界に入っています。 禅に入るということは、そまでの学び方を根本的に更新するということだったのです。
中略
学得よりも「体得せよ。自得せよ」というのが禅の根本思想です。だから、禅の修行道場では、自分自身の実存的な問題を引っさげて、毎日坐禅をし、規律正しい日常生活を送ります。つまり、生きることすべてから学ぶのです。法門(真理への入り口)はどこにでも、開いているからです。 繰り返しますが、ブッダは経典を学んだのではなく、ただ生きることを学びとしました。そのブッダの生き方に倣おうというのが、禅 の、そして仏教本来の立場だと私は理解しています。経典はあくまでもそのための参考書なのです。
『ブッタが教える愉快な生き方』藤田一照 NHK出版
まとめ
現代社会においても、「三世心不可得」の教え
・ 過去の失敗にとらわれず、前向きに進む
・未来への不安を和らげ、今に集中する
・ 固定観念にとらわれず、物事を多角的に捉える
徳山宣鑑の言葉は、現代を生きる私たちにとっても、かけがえのない指針となるでしょう。
ちなみに老婆の質問ってなんて答えるのが良かったんでしょうかね、、、、