最近SNSで「戒名1文字5万円!」についての記事を拝見しましたのでそれについて書こうかなと思います。
勝手に記事にしてもよろしいのかと思いましたが、同じ僧侶への注意喚起も含めて記事にさせていただきたいと思います。
まずはじめにお伝えすることは宗派、お寺によって考え方の違いはあります。また私自身まだ僧侶としての経験が浅いため、おかしな部分があるかもしれません。あらかじめご了承をお願いいたします。
今回の記事ですがデマかホントか、誇張して書いているかは無視します。
詳しい内容が分からない為、実際とは違う可能性もあります。
以下内容を簡単にまとめたもの↓
「葬儀をお願いした際、お布施がわからず僧侶に聞いたところ教えてくれず、5万円を包んだところ戒名が1文字だった!(位号もついていなかったそうです)」
ということらしいです。
「そんなふざけたことがあってたまるか!」
「その僧侶は何様だ!」
「千と千尋の神隠しやん!」
「逆に考えるの難しいわ!」
って話ですよ!
その後のことはわかりませんが、僧侶に対して悪い印象がついたのは確かです。
投稿主様に対してこの寺院とは関係を絶たれたほうがいいかもしれないというのも同じ僧侶として考えさせられます。
今回は僧侶と在家の方に対しての記事になります。
お布施について
まず和尚がお布施について質問されてるのにお答えしないのが問題ですね。
お寺の考えでは金額を提示してしまえばそれはお布施ではなくなってくるので「お気持ちで」といったり「ご無理のない程度で」と言いたい気持ちはあると思いますが、現代ではそれをいったところでわからない人からしたら本当にわからないですし、家族が亡くなって冷静な判断もできなかったり、落ち着かなかったりと、とても状態としてはよろしくありません。
ですので、相手の不安を少しでも和らげるためにここはハッキリと提示してあげるのが現代社会でいいのかなと思います。
また、人生に数回しかない葬儀に関してやり方などがわかるわけがありません、そこをしっかりと教えるのも僧侶としての役割なのではないでしょうか。
戒名1文字だけ問題!!
父親の戒名が1文字!!!
これにはびっくりしましたね!
曹洞宗では以下のような構成で作られます。
【院号】(お寺に貢献した際の功績としてつけられる)
【道号】(あざな(字)みたいなもの)
【戒名】(仏弟子としての名前)
【位号】(居士、大姉、信士、信女等)
戒名は本来2文字ですが、一般的にはこの構成をまとめて戒名と呼ばれております。
上記を踏まえたうえで、お気づきだとは思いますがまず1文字というのはありえないことですね。
投稿主様は金額がわからず5万円を包まれたそうですが、それに対しての戒名が1文字であった。
1文字5万円事件!!
その住職は何を思って1文字にしたのかわかりませんが同じ僧侶としてとても恥ずかしいばかりであり、投稿主様には大変申し訳無い気持ちになります。
戒名とは?
戒名というのは仏弟子としての名前になります。
戒名をいただくには授戒といい「戒法」というお釈迦様から代々続く正しく生きていく教えであったり、仏道を歩むうえで大切な教えを授かる、授ける儀式を行います。
「戒」とは〝戒め〟と書きます。
やってはいけないルールとか強制的にこれはダメという決まりではなくて、仏道修行を自ら進んで行おうとする仏様との約束になります。
曹洞宗では大きく16通りに戒を立てております、修証義の3章にかかれています。
戒を受けたことでお釈迦様のお弟子となり仏教徒としての証として「お血脈」をさずかります。
本来は生前に授かるものですが、布教が足りないがゆえに、現代では葬儀の際に授けるのが一般的になっております。
没後作僧(もつごさそう)
「亡くなった方をお坊さんにすることです。」
曹洞宗では亡くなったあとはお釈迦様の弟子として仏様として過ごされます。
そのためにお葬式では、剃髪(髪を剃る)授戒、懺悔などをして身心の大清浄によって四十九日を過ぎたあとは仏様となります。
戒名は自分でつけてもいいのか?
ネットを見ると「戒名は自分で考えてつけてもいい」という記事をよく見ますが、私の考えではそれは間違いになります。
上で書いた通り、戒名とは仏弟子としての名前になります。「戒法」をお釈迦様から代々受け継いできた住職によって授けられ戒名が与えられますので、自分で考えてつけるのはちょっと違うかなと思います。
人によっては「この文字を入れたい!」って方もいると思います、死後のことまで考えてることは悪いことではありませんが、自分でつけてしまうとそれは戒名ではなくニックネーム、あだ名みたいなものになってしまいます。
戒名の役割
人が亡くなると枕経へ向かい、その際に「生前どういった方だったのか」「職業は?」「趣味は?」と様々なことを親族の方にお尋ねします。
それをふまえ住職は戒名を考えます。
「牛」「馬」「畜」「革」などは差別戒名になるためつけてはいけません。
あとはただ酒好きだったから「酒」をいれる、サッカー得意だから「蹴」など単純な思いでつけることもございません
その先もっと深い意味を持って戒名は授けられます。
私はまだ副住職の身のため戒名を授けたことはないですが、法事やお墓参りに行く際に様々な戒名を見てきました。そのほとんどは私が知らない人ばかりです。なんなら家族でも顔を知ってる人は少ないのではないか?という先祖代々の戒名もあります。
それでも戒名を読めば「この人はたぶんこういう人だったんだな」とか生前のお名前を1文字取っていれば「もしかしたらこういう名前だったのかな?」と戒名からは様々な人柄を想像することができます。
道元禅師も戒名でないですが、「国師号」を当時の天皇より授かっております。
仏性伝当国師
「仏道を中国より日本へ伝え、国の師として貢献した」
という捉え方ができます。
戒名とは住職1人で考えるものではなく、残された親族たちのご協力のもと考えられます。
周りの人が「この人はこういう人だった」「この人のここが好きだった」「こういうことを学んだ」といろいろな事が込められているのが戒名になります。
それに反して自分はこういう人だったから、自分はこの文字がいい、自分は、自分は、、と言うのは少し違うのかなと思います。
ダメと決めつけるのはできませんが、死後のことを考えるのではなく、今生きてることに、そして周りとの関係に一生懸命に過ごして、「この文字がほしい」というのなら生きている間にそれにふさわしい生き方をするのも1つの手だと思います。
戒名の在り方
戒名って絶対につけなきゃいけないの?と疑問に思われる方多いと思います。
なんなら今回みたいに1文字だけとかいわれたらそりゃつけたく無くなりますよね、、、
別に法律的に付けなきゃいけないなどはございませんので、つけたくない方、自分で考えたいなどは止めはしません。
ただそれでは「自分は死んだら戒名いらない」「自分はこの戒名つけよ」など結局は自分よがりになってしまいます。
戒名メーカーとやらも最近では出回ってるそうですね。
また僧侶を呼ばずに家族だけで行う。戒名は自分で考えた、メーカー使った。などという方もいと思いますが、ここまで読んでくれているのなら気づいてほしいですがそれは「戒名」とは言いません。
それはニックネーム、あだ名、好きな漢字を並べただけのものになります。
葬儀はお見送る人がどう思うかです。「自分はこうしたい!」と思っても残された方がそれをどう思うかを少しだけでも考えてみてください。
僧侶、お寺との付き合い
最近では本当に考え方が変わってきております。
お寺の付き合いも今の40代以降の方がいなくなってしまえば、なくなるのではないかな?とも思ったりもします。
お布施の恩金に関しても高い為払いたくない
戒名が無くてもいい
自分の子供、親などの葬儀はお坊さんを呼ばなくてもいい
お寺の付き合いはめんどくさい
などなど様々あると思います。
一部の僧侶の行いで宗派関係なく、世間での僧侶の見え方が悪くなり、お寺離れが起きております。
そのせいでネットの情報を鵜呑みにして間違った知識だけが世の中に広まり、余計に印象が悪くなってしまっております。
私も仏道を歩んでる身として、真面目かと言われると正直「はい」とは言えません。
お魚食べます。お肉食べます。お酒飲みます。恋をします。遊びます。いろいろと煩悩の塊と言われると何も言い返せません。
ですが、私はブログなどを通して皆様に仏教を発信できたら、もっと親しみを持って接してくれたらいいなと思っております。
菩提寺へいった際に
お寺の境内、庭の手入れが汚い、お墓が汚い!
お参りが雑な気がする!
など思ったらすぐに言うべきです。お檀家さんなら言う権利がございます!
ただ、粗探しをしようという気持ちでお寺参りしてはいけません。
御本尊を拝む、ご先祖様にお参りをするときにその考えは不要です。
【三毒】
「怒りによる負の感情、貪りによる煩悩、無知ゆえの妄想」
は仏教において障害になります。
そういったもの一切合切なければ僧侶とコミュニケーションをとり、よりよい人生が迎えれるかもしれません。
あと、お金の話にはなってしまいますが、お布施は基本的にお寺の護持、家庭の生活に使わさせていただいております。
一部の僧侶が高級車や時計ネックレスなどをチラつかせているのも事実です。
お布施の使われ方に疑問を抱くのも無理はありません。
これでは悪徳商法みたいなものですね、、、
周りの人に見られてるという自覚を今一度もって行動しなくてはいけません。
【威儀即仏法 作法是宗旨】を忘れずに!
ekyoosyomondou.hatenablog.jp
僧侶の在り方
改めて世間の評価を上げるということは大変難しいことであります。
お寺のやり方を変えなくてはいけないかもしれません。
布教が足りていない。
もっとお寺に親しみを持ってもらいたい。
皆が不安なときには支えになってあげたい。
そういった思いを持つ僧侶が現在何人いるのか!
今一度お寺の在り方というのを考えなくてはいけません。
またお寺を維持、修繕する際たくさんの費用が必要となってきます。お寺の中には何百年と建っており老朽化が進んでいるのも少なくはありません。
そのお布施を出してくれているのはお檀家さん、近所の皆様方、お参りに来てくれる皆さま方のおかげです。
皆様ありきのお寺なのです。
決して僧侶だけの持ち物ではないということを自覚しなくてはいけません。
最近は葬儀以外での収入が少ないお寺も多いと思います。
私のところも同じような状況なので葬儀がなければ月に収入が0のときもあります。
それでもお寺の維持、生活をしなくてはいけないのです。
寄り添いやすい寺院を維持できるよう精進していきましょう。